hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

「自己啓発の教科書」を読む

自己啓発の教科書」は、その名前に反し、様々な自己啓発書を分類し整理した本だ。

 

原書は「The art of Self-Improvement」だから教科書というタイトルは的外れに思う。サーベイ論文的な内容を踏まえると「自己啓発書の研究」などの方が妥当だろう。

ビジネス書は割と読んでいるが実は自己啓発書はあまり読んだことがない。カーネギーの「人を動かす」くらいだろうか。この手の本は基本的に根拠に乏しく信頼に値しないと思っているからだ(ただ、「人を動かす」は面白かった。誰しもが自分を正当化するので、その前提で振舞えという主張は先読み推論的だ)。

この齢になって思うのは、人はそんなに変わらない/変えられない、ということがわかってしまう。ダイエットしてもすぐリバウンドしてしまうように、一時的に変えることはできても、長い目で見ればそんなに変わらない。興味のないことや好みでないことをやり続けるというのは基本的には無理だと思う。やり続けられる人は、そもそも興味や関心(そして能力)に違いがあるのだ。(あらゆる自己啓発が駄目であると言っているわけではない。興味関心に合わない自己啓発は結局続かない、ということだ)

 

この本では自己啓発書を10種類に分類しているが、個人的にはこの整理は微妙ではないかと感じた。軸がないので、MECEになっているかどうかがよくわからない。結果、この分類にはこういう本がありますよ、でほとんど終わってしまう。

「シンプルに生きる」と「手放す」には共通点がありそうだし、「共感する」と「想像力を働かせる」にも関連がありそうだ。「手放す」と言っても物を手放すのは欲望を手放すのでは意味合いはずいぶん異なるのではないだろうか。

私だったら、外に影響を与える/自分を変える、未来を予測する/現在の選択を変える/過去の捉え方を変える、のような軸で整理するかもしれない。

 

あとがきで「昔の人は不幸を前提としていたが、現代の人は幸福に生きるべきであるということが前提となっている」と書かれていたのはなるほどと思った。

この本の中で仏教は何度も引用されるが、たしかに仏教の教えは人生は不幸であるということが前提にあるように思う。マインドフルネスが仏教から産まれたにもかかわらず成功に資するという異質な目的が置かれているのは現代人の要求に準じたからなのかもしれない。

仏教においては煩悩を捨て悟りを開くことを良しとする。しかし、それは現実に不幸が多く、不幸を回避することに重点を置くならそうかもしれないが、その結果、欲望にまみれた周りの人間に大きく差を付けられた状況を見せつけられたとき、それを良しとできるかは別問題ではないか。結局、捨てたはずの煩悩に悩まされてしまう。

「幸福の研究」ではしばしば語られるように不幸と幸福はひとつの次元に存在するのではない。不幸の回避や回復なのか、幸福の拡大が目的なのか、そういう軸で見ることも必要かもしれない。