先日「AFURI」というラーメン屋の商標の件でひと悶着があったことは知っている人が多いと思う。
さて、この吉川醸造の主張を読んでどう思っただろうか。普通は「AFURIはひどい会社だ。許せん」と思うのではなかろうか。では、次の記事を読んでみてほしい。
私は事の真相を知らない。しかし、上記の記事を読んだらまったく別の感想を覚えるのではなかろうか。
吉川醸造の記事に人々が共感を寄せてしまうのは、読み手の次のような先入観があるからだろう。
- 吉川醸造という名前から来る、古くからある小規模な個人経営の酒蔵に違いないという思い込み(実際には、2020年に不動産系などの多角経営やってるシマダグループに買収されている)
- 「阿夫利」という名前は地名であり地域の共有財産であるべきだ、という先入観(この主張は必ずしも間違いではないが、俗称であり、そこまでメジャーな名前でもなく、AFURI がブランドを広めた側面も強い)
- 強く憤っているということは、この人は正義に基づいて主張しているのであろうという思い込み(実際には、吉川醸造の方が理不尽な行動をしているように見える)
もちろん、商標権と言う観点からAFURIはおかしなことをしていない、という側面もあるが、ここで問題としたいのは想起される感情についてなので無視する。
誰が本当のことを言っているのかわからない、と言う意味では黒澤明の「羅生門」的と言えなくもないけれど*1、どちらかというと、古くからみられるどんでんがえし的な落ちだとは思う。しかも、結構などんでん返しだ。
昨今、映画を見ていてもどんでん返し的な落ちで失敗しているように感じることが多いが、現実のどんでん返しはとても見事だ。完全に予想を裏切られるし、その裏切り方が斜め上を行っている。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。
最初にこのことを認識したのは、「北海道七飯町の林道で親に置き去りにされた7歳の少年が行方不明になった事件」だった。
この事件では、親がしつけのために子供を道の途中で置き去りにした。親は数分で引き返したものの、子供の行方はしれず、その後何日も見つからなかった。
当初から実は子供はすでに親に殺されていて、親が嘘をついているのでは、という声が絶えなかった。
結末はご存じだろうが、行方不明になった7歳の少年はなんとサバイブし7日間も生き延びていた。まじか。
これも「7歳の子供はかよわく、クマもいる北海道の山中で、水も食料もなく何日も生存できるはずがない」という先入観によるものだし、親からしてもそんな場所に降ろされたのに、泣きながら立ちすくむのではなくサバイブ始めちゃうとは予想もしなかっただろう。(得てして、子供は思考の枠から外れた行動をするものだが)
この事件は偶然の産物だが、昨今ネット全盛の時代になって、吉川醸造同様ミスリードを誘うことで、立場を逆転させようといういかがなものかと思われる事例も散見される。
- 高知県土佐市の観光施設「南風」のカフェ 立ち退き問題
- 経緯は不透明であり市側にも問題がありそうだが、そもその賃貸借契約がなされていなかったことが明らかになっており、当初のカフェ側の主張は一方的なものであった。
- GIGAZINE倉庫破壊事件
しかし、よく考えればメディアでの公表が昔より簡単になっただけで、メディアを使って悪役を仕立て上げるということは昔からしばし行われてきた。
例えば「安部英医師「薬害エイズ」事件の真実」では、「薬害エイズ事件」の主犯として取り上げられた安部英医師が避けられなかった事故に対するスケープゴートにされたことが説得的に展開される。
人は事件が起こると、悲しんでいる人や文句を言っている人が正しいのだろう、あるいは事件が起こっているのだから犯人はいるはずだ、という短絡的な思考に至ってしまう。そしてその思い込みを元にストーリーを勝手に作り上げてしまう。
今回、いろいろな事例を取り上げたが、いずれも事件を知った当初は短絡的に考えてしまったものばかりであり、そのような考えを断罪する立場にはない。しかし次のことは言えるだろう。