hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

My 正議論

意見というのは十人十色、様々な主張はあってしかるべきとは思う。

 

思うものの、事件の犯人に対する擁護は被害者に対する攻撃や抑圧として機能することも忘れるべきではないと思う。「ロシアが戦争を仕掛けたのはウクライナの挑発があった」、「性被害の告発が、ジャニーズ所属タレントの未来を奪った」、そういう逆張りの主張をする著名人は多い。もし、あなたがウクライナ人や性被害の当事者だったらどう感じるだろうか。一方的に被害を受けたにも関わらず、なぜさらに非難されなければならないのか。まるで「いじめの原因はいじめられる側にある」かのような論理だ。

 

法学では「もし原因がなかったならば結果も起こらなかった」という因果関係が重視されるそうだ。そういう観点で見れば、たとえウクライナがロシアを挑発しようがしまいが、戦争と言う行動を起こしたのは間違いなくロシアである。同様に、たとえタレント側が枕営業を意図したとしても、大人であり権力者であるジャニー喜多川が断れれば性加害は起こらない。性加害を行わなければ、性被害の告発もなく、ジャニーズタレントが活躍の場を奪われることもなかった。どちらが悪いのかは明らかだ。どんなに理屈を積み重ねようとそれは変わらない。

 

さて、次のような見解についてはどう考えればよいだろうか。

統一教会へのバッシングは山上徹也の安倍元首相殺害テロを容認しているのではないか

私はこのように考えるべきだと思う。

  • 安倍元首相の殺害の責任は山上徹也容疑者にある。彼はその責任を負い刑罰を受けなければならない
  • 安倍元首相は、過去に問題を起こした教団の広告塔として行動したことの責任を問われるべきであるが、それはテロによって殺害されてよい理由にはならない
  • テロ事件がきっかけとなっただけで、バッシングは教団が行った霊感商法などの行為への批判でありテロの容認とは関係ない

いずれも当たり前のことではないだろうか。意思に基づき犯罪を実行に移した者が悪いのであり、その他のことは飾りに過ぎない。

 

このケースのように宗教や教育や思想が絡む場合、複雑な問題として扱われることが多い。しかし、そもそも事件の主犯を決めるのに宗教や学校、思想が関係するのだろうか。少なくとも現代においては、教義や思想に従っていれば犯罪行為をしてもよいわけはないし、教育のためなら暴行してもよいという時代ではなくなっている。宗教や教育や思想というベールを取り払って見たとき、犯罪とみなされるのであれば、その行為は罰せられるべきだろう。