hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

「戦略の要諦」は、むしろPM/PdMの必読書かも

リチャード・P・ルメルト「戦略の要諦」という本を読んだ。書名の通り、戦略について書かれた本ではあるのだけれど、経営者よりもむしろPMやPdMにとって有用なリーダー論になっているのが面白い。あまりに面白かったので前著の「良い戦略、悪い戦略」まで読んでしまった(前著も素晴らしいが、「戦略の要諦」の方がより洗練されているので先に読んだ方が良いと思う)。

 

以前「管理職の条件」というエントリで所謂「リーダー」には業務マネジメントと部下マネジメントという2つの異なる概念があることを書いた。その切り口で語るならば、この本では業務マネジメントにおける「戦略」の重要性が書かれている。

私はPM/PdMが本業ではない(たまにはやる)けれども、システム開発の業界に20年以上いて、数億~十数億円規模の大規模開発案件のアーキテクトをそれなりの数、経験してきた。その経験の中で優れたPMとはどんな人なのだろうか、ということは長く考えてきた。

大規模プロジェクトというのは本当に魔物ですんなりうまく行くなんてことはめったにない。表面上は成功案件であっても、実際には紆余曲折の結果なんとか形になったものばかりだ。にも関わらず、大規模なプロジェクトというのは一度関わると最低2年は拘束されるため、多くの経験を積むということが難しい。(これは経営者も同じだろう。人生で大きな会社を何社も経営する人は多くない)

 

この「戦略の要諦」では、考えてみれば当たり前のことが堂々と書かれていて本当にはっとさせられた。それは、「ミッションやパーパス、ビジョンのような願望や理想は何の役にも立たない。何が課題なのかをしっかり見極め、権力を振るって解決せよ」ということだ。

以前、ちょっとだけ会社のビジョン的なものを考える取り組みに参加させてもらったことがあり、その際に大企業の掲げるミッションやビジョンを調べたことがある。驚くのは、その内容の薄さだ。だいたいが、業界トップになる、とか、社会や環境との調和や貢献といったもので、もし同じ内容を同業他社が掲げていたとしても判別できないようなものばかりだった。(ユニークだったのは、Google の「世界中の情報を整理し、普遍的にアクセス可能で有用なものにすること」くらいだろうか)

私は必ずしも会社の方向を指し示しデフォルトの動作を社員に伝えるという意味でミッションなどに意味がないわけではないと思うけれども、この本で書かれている通り「役員の誰も覚えていなかった」という結果になるのもわからなくはない。特に規模が大きくなり、多種多様な子会社を抱えるグループ企業になれば、何をミッションに掲げればいいのかすらわからなくなるだろう。

 

ルメルトは「戦略」をこのように定義する。

戦略とは、組織の命運を決するような重大かつ困難な課題を解決するために設計された方針と行動計画の組み合わせを意味する

そして、このように述べる。

戦略とは単に目標を掲げることではない。問題解決の一種と捉えるべきである。したがって、いま何が問題なのかを理解せずに解決することはできない

しばしば、業務マネジメントのリーダーは、単にスケジュールと要員管理に堕してしまう傾向がある。私の経験上、プロジェクト管理の最も重要な役割はむしろ課題管理と解決にあると思っている。(このように言う人は少ないと思う。よく聞くのは「体制作り」の重要性。まぁ、有能な人を連れてくればプロジェクト成功するよねw 一方で、有能な人がいなければ失敗が確定するということになるが、それでいいのかという話でもある)

 

この著者のルメルトは元々、ジェット推進研究所でシステム設計エンジニアだったことも影響してか、記述がいちいち合理的に書かれており、飲み込みやすい。決して数字的なエビデンスが示されているわけではないのだけれど、その理由はこうで、こういう意味ではない、ということが書かれている。戦略についても、ルメルトの定義を曖昧に解釈し骨抜きにしようとする人に付けこむ隙間を与えない。

経営は意思決定者だとよく言われる。そして意思決定に関する理論が次々に開発されてきた……だが、経験豊富な経営者でなくとも、それはおかしいと気づくだろう。いったいその「選択肢」はどこから来たのか?

戦略を立てるとは、単に目標を掲げることでもなければ、決定を下すことでもない。

戦略は目標達成のための計画を立てることだと考える人は多い……だが会社にとって死活的に重要な課題あるいは機会は何かを分析も理解もせずに恣意的に目標が決められたとすれば、それは裏付けのない目標と言わなければならない。……今後一二カ月で利益を倍増するといった裏付けのない目標は、会社の現実からかけ離れていると言わなければならない。

「結果を出す」のは目標管理の一環であって、戦略ではない……目標管理の仕事、すなわち与えられた目標を達成することは、実行と呼ばれる。……成功は、よい戦略と実行の両方の結果である。どちらか一方が失敗すれば結果は出ないのであって、どちらも重要だ。どちらがより重要かという問題ではなく、戦略と実行は別だということである。

 

そして、この本が本当に優れてるな、と思ったのは権力に関する記述だ。

戦略は、リーダーが設計する方針あるいは方向性だ。上から”戦え”と命令しても効果がないと気付いたとき、戦略が始まる。リーダーは誰がどこでどう戦うか考え、方針を示す。近代的な企業における戦略の実行とは、放っておいたらやらないことをシステムの一部にやらせるために権力を行使することを意味する。

権力と言うと、自身の立場をわからせるために使われていることが多い。しかし、このような権力の行使は正当化されるだろう。たとえ、その結果としてリストラされる人や不利益を被る人がいたとしても、それがリーダーに求められている役割なのだから。(自分が不利益を被る側にいるとつらいが)

 

プロジェクト管理についてはスクウェア・エニックスの「ゲーム開発プロジェクトマネジメント講座」という資料がばつぐんに優れているけれども、その中の「調査・戦略」の具体的な方法論として位置づけ読むのもよいのではないかと思う。

統計学とは何か、そしてベイズ統計学の話

細々と統計学を調べ続けているが、最近ようやく統計学というものが何なのか、おぼろげながらわかるようになってきた(なお、統計学ができるようになってきたわけではない)

 

統計学を知る前の自分と今の自分をくらべたとき、間違いなく違うのは統計学に対する信頼だろう。以前は、統計学は数学の一分野であり、正しい分析手法を使えば真の答えが得られるものだと思っていた。しかし、実際には統計学者ジョージ・ボックスが言ったとされる「すべての(統計)モデルは間違っている、だが中には役立つものもある)」という言葉の方が実態に近い。

 

統計学は基本的に「不可能なことを可能にする(不良設定問題を扱う)」学問だ。例えば、1、3、5 という数字の列から何が言えるだろうか。確実なことは3つの実数値が観測された、ということだけで、それ以上のことは想像するしかない。奇数列かもしれないし、乱数から3つの値を取得した際に偶然それっぽい数字が出てきただけかもしれない。観測されたデータが 1、3、5 という値だった以外には確たるものは何もない。

 

統計学ではそこに仮定を置くことで本来不可能な観測データの解釈を可能にする。

このとき、「正しい分析手法を使えば真の答えが得られる」という誤解が悪さをする。例えば、有意性検定の結果、有意になったのだから、故に正しいのである……というような勘違いをしてしまう。実際には「仮定が正しければ」という条件が隠れているにも関わらず。

人間がえいやで作ったデータではないとか、誤差は正規分布するとか、確率変数が i.i.d に従うとか、そういった多くの仮定のもとで「推定」しているに過ぎない。因果推論手法を使えば、因果関係がわかるわけではなく、因果関係がない理由を可能な限り減らしているだけだ。逆に、もし効果があるならば因果関係があるということが誰の目から見ても明らかであれば、単なる回帰分析であっても因果関係は特定できると言ってよい。

 

ウサギの骨格からあの可愛らしい姿が想像できるだろうか。いくら統計学を駆使しても、骨格からだけではウサギの耳まで復元するのは難しいのではなかろうか。

 

さて、ベイズ統計学では確率を主観的なもの、すなわち信念として定義され、データが観測されると賭けに勝つという意味での合理性に基づき信念が更新される。

「正しい分析手法を使えば真の答えが得られる」ことを前提に置くと違和感を感じるが、観測データからわかる範囲で合理的に推測するという発想に立てば、主観確率を基礎に置く方がむしろ自然に思える。

 

この方法論のメリットは何と言っても、観測されたデータから最善の予測が得られるということが明確である点だ。もし最善の予測でなければ、それは賭けに負けるということを意味している。

もし予測が間違っているならば、それは「そもそも観測済みのデータだけからではわからない」か「事前分布の影響が残っている」か「モデルが間違っている」、のいずれかに原因があるということになる。

そして、観測済みデータが十分にあるならば「モデルが間違っている」以外の可能性は通常は否定できる。(観測済みデータがたまたま異常に偏っていたり、不適切な事前分布を使ったため影響が残り続ける可能性はなくはないけれども)

 

ベイズ統計学をかじっておいてよかったこととしては、大規模言語モデル(LLM)をそこまでブラックボックスに感じないことがある。ChatGPTなどのLLMはベイズ推定により構築されているわけではないけれども、入力されたプロンプトに対し確率的な推論に基づき継続する単語を出力しているだけ、とも言えるわけで、究極的にはベイズ推定でLLMを作った結果と一致するのではないかと思う(ベイズ推定が賭けに勝つという意味での合理性に基づき構築されている以上、ベイズ推定と異なる結果は改善の余地があるということになる。もちろん、速度は置いておく)。

 

現在も機械学習のハイパーパラメータチューニングの手法としてベイズ最適化が使われているけれども、そう考えると今後もっとメタな視点、例えば評価基準などにベイズ統計学が使われていくのかもしれない。

 

ベイズ統計学では教師あり学習、教師なし学習、強化学習を区別なくシームレスにモデル化できるというメリットがあるが、これは機械学習だと明確なモデルがない(多層のニューラルネットがモデルと言えばモデルだが)のでこの利点を導入するのは難しそうだ。もしかすると今後、ニューラルネット(NN)でMCMCを高速近似するみたいな話が増えてくるのかもしれない。モデルレスで予測する場合とモデルの制約付きで予測するのでは用途が違う(後者はより因果関係にフォーカスされている)ことを考えれば機械学習に押されてベイズ統計学が使われなくなるというものではないと思う。一方でベイズ推定が遅いのでなんとかしたいというニーズはあるわけでNNがその役割を果たすならうれしい人は多いと思う。

 

あとは事前分布だろうか。ファインチューニングや転移学習のベースモデルは立ち位置としては事前分布にあたると言っても良い気はするけれど、ベイズ推定と違ってそれ自体が正則化機能を提供するわけではないという認識でいる。(「ベイズ推論による機械学習入門」にNNをモデルとしてベイズ推定する例が出ていたから、これをきちんと読んだらわかるのかも)

 

そういえば、いまだ事前分布の設定に関してはよくわからない。

「絶対に取り得ない範囲は0にする(事前分布が0になると事後分布も0になるので、可能性があるなら0にしてはならない)」、「できるだけ既存の知識に基づき事前分布を置き、無情報事前分布は極力使わない(Improper な事前分布も使わない。尤度原理に反するジェフリーズ事前分布も使わない)」あたりは言ってもよいとは思うけれども、じゃあ具体的にどのような分布を選べばいいのか。

ベストな無情報事前分布というものはどうも存在しないようだというのはわかるし、弱情報程度であれば、ある程度の観測データで影響は緩和できるからあまり気にする必要はないという事情もわかるが、ある程度のガイドラインがあってくれるとうれしい。事前分布の決め方で一番有名なものは「Prior Choice Recommendations」だと思うのだが、いろんな情報が列挙されているだけで、何を選べばよいのかというガイドにはなっていない。正直、小サンプルの分析をしたいというのでもない限り、一律、正規分布 N(0, 10)(正の値しかとらないなら 半正規分布を使う)でも良いのではないのではないか、とは思っているが、それを正当化する情報は持っていない。

 

既存の知識を持ち込むのが事前分布だとするなら、LLMに事前分布を決めてもらうというのはどうだろう。膨大な情報を元に妥当な事前分布を設計してくれるかもしれない。

「戦略ごっこ マーケティング以前の問題」を読む

たまたま見かけて買った本だったけど、おそらくこれはすごい本だ。マーケティングについては門外漢なので、間違ったことを言っている可能性もあるが、「21世紀におけるマーケティングの教科書」と呼んでも差し支えない内容だと感じる。

 

作りとしては「事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?」に近く、主に2000年以降のマーケティング系論文を著者なりにまとめて解説した本となっている。このような作りは邦訳書籍ではしばしば見かけるものの、日本の書籍としては大変珍しい。日本人が書いたビジネス書はたいてい、著者の経験から来る思いつきが列挙されるだけで根拠は皆無なことが多い。この本では、多くの箇所で引用元の論文が記載されておりかなり信頼できる。*1

 

マーケティングの本と言えば、コトラーや4P/4C分析などのフレームワークの解説に終始することが多いけれども、そのような内容にはほとんど触れられていない。むしろ、私のような素人向けの用語説明は簡素でもうちょっと補足してほしいと思うくらいだ(ロイヤリティ、オケージョン、STP などはマーケティング専門用語的な意味合いが強く、読んでいていつも引っかかった)。

そうではなく、マーケティングにおける常識と思われてきた言説、例えば「新規獲得よりも既存顧客の解約率を下げることが重要」、などに対し、2000年以降の実証研究を踏まえ再検討を迫る内容となっている。

 

この本の主張はこうだ。過去のマーケティング分析はうまく行った事例を元にこうすればうまくいく、と主張されてきたが、逆の因果関係の場合も多いため、担当者や経営者が良かれと思ってやっていることが、実際には事業の成長を妨げ、時にはビジネスを衰退させる原因になっているのではないか、ということだ。

この視点は過去に紹介した「なぜビジネス書は間違うのか」にも通底する内容だ。成功事例の裏には多くの失敗事例がある。成功事例で実施した施策は実際には失敗事例でも行われていたかもしれない。成功事例のハロー効果(後光効果)によって施策の効果はゆがめられてしまう。同様に因果推論においては反実仮想での結果と比べて効果があったか否かかが重要となるが、マーケティング担当者は実際の結果でしか判断ができないため、本当は因果関係がないような施策に自信をもってしまう。

 

本書の優れたところは単なる否定に終わるのではなく、具体的にどう行動すべきかまで踏み込んでいるところだ。

たとえば新規顧客と既存顧客ではどちらが重要か、という「問い」に対し、新規顧客の獲得は既存顧客よりもコストがかかるという常識は間違っており、実証研究を見る限り既存顧客の維持の方がコストがかかり、通常は新規顧客によって販売が拡大するという「否定」を行ったものの、長期では新規顧客の獲得が重要でも、短期では既存顧客の維持も必要なのだから、それぞれをターゲットに異なる施策を打ちましょう、というアドバイスを行うといった次第。

 

細部まで踏み込まれた大変な力作だと感じる。「渋谷駅前で働くデータサイエンティストのブログ」のTJO氏など、専門家の感想も聞いてみたいところだ。

 

一点、残念なところがあるとすれば書名だろうか。マーケティングやブランドについて扱った本なのに「戦略ごっこ」というタイトルはいかがなものだろうか。

副題も「マーケティング以前」となっており、この本がマーケティング戦略の本筋について書かれているとは受け取られにくいし、「ごっこ」という言葉は本書の購買層であるマーケティング担当者を端から馬鹿にしているように読めてしまう。本のタイトルは担当編集が決めるものであるので著者のせいとも言い難いが、このタイトルは拒否すべきだったように思う。平凡かもしれないが「マーケティング新時代の教科書」などのタイトルの方がわかりやすいし、その名前にふさわしい内容に思える。

 

[2024/1/31追記] ありがたいことにTJO氏よりコメントを頂いた。

新鮮味はないとのことで、あまりおすすめではないようだ。そういう本ではあるとは思う。逆に言えば私のような素人にはまとまって読めて良かった、ということで。

*1:まぁ、「神々の指紋」の例もあるので、引用があればOKというわけではないけれども。

子供が生まれた日の記録(おかわり)

なんと2人目が産まれた。今度は男の子である。

 

子供は2人欲しかったので、これは大変喜ばしいことである。夫婦2人に子供2人、合わせて4人。これで4人プレイのボードゲームができる。3人用のルールもあるにはあるのだけど、4人プレイ前提をむりやり3人用に変更しているので面白くないことが多い。3人でプレイするのか、4人でプレイするのかは大きく違う。(こんなことを書いていると将来、俺はゲーム要員として産まれたのか、と怒られそうである)

 

今回こそは感動するかと思ったがそうでもない。世の中、実はそういうものなのか、私が薄情なのか。結婚したときにも、1人目の子育てでも思ったが、少なくとも私にとって愛情と言うものは日々だんだんと培っていくもので「愛着」の一種なのだと思う。子供の、今までできなかったことが突然できるようになる、それが楽しい。

 

前にも書いたけれど、我が家では男女差別すべきでないという思いから、長女が次期当主となる。(ちなみにたいした家系でもないし財産もないので、単なる称号である)

これはこれで産み順差別なのではないか、という気もするけれど、相続まで考えるとマンションの部屋を半分にするわけにもいかず、片方は親のレガシーを引き継がざるを得ない。下の子はレガシーを引き継げない代わりに気楽に過ごせる。そういう仕組みになっている。

 

1人と2人の違いと言えば、兄弟の関係性である。私も一番下だったが、弟が人生を楽しく過ごせるかは、姉との関係性が重要になると思っている。姉にとって弟の存在はとるに足らないものだが、弟にとっての姉の存在は大きい。徒弟となるか親友となるかはわからないが、とにかく仲良くしてほしい。私にも兄弟がいる。仲が悪いわけではないが、それぞれの人生が積み重なってくると、ほど良い距離感がつかみにくくなってくる。

世の中見ていると、兄弟それぞれがそれぞれの個性・特徴を生かし活躍しているほうがうまい関係性を築けているように思う。同じ方向性でひとりが成功、もうひとりが失敗だと目も当てられない。兄弟でオリンピックならめでたいが、そんなことはめったにあるものではない。

 

ひとつ不安が残るのが男の子であるという点だ。なんせ、私はスポーツが大の苦手なのである。例えばの話、子供がサッカー大好き、ましてや養成所に入りたいとか、週末は試合を身に来いとか言い始めたらどう接していいのかわからない。スポーツの能力も遺伝要素が強いらしく、能力については杞憂だとは思うが、現時点ではそれが最大の不安要素である。

「自己啓発の教科書」を読む

自己啓発の教科書」は、その名前に反し、様々な自己啓発書を分類し整理した本だ。

 

原書は「The art of Self-Improvement」だから教科書というタイトルは的外れに思う。サーベイ論文的な内容を踏まえると「自己啓発書の研究」などの方が妥当だろう。

ビジネス書は割と読んでいるが実は自己啓発書はあまり読んだことがない。カーネギーの「人を動かす」くらいだろうか。この手の本は基本的に根拠に乏しく信頼に値しないと思っているからだ(ただ、「人を動かす」は面白かった。誰しもが自分を正当化するので、その前提で振舞えという主張は先読み推論的だ)。

この齢になって思うのは、人はそんなに変わらない/変えられない、ということがわかってしまう。ダイエットしてもすぐリバウンドしてしまうように、一時的に変えることはできても、長い目で見ればそんなに変わらない。興味のないことや好みでないことをやり続けるというのは基本的には無理だと思う。やり続けられる人は、そもそも興味や関心(そして能力)に違いがあるのだ。(あらゆる自己啓発が駄目であると言っているわけではない。興味関心に合わない自己啓発は結局続かない、ということだ)

 

この本では自己啓発書を10種類に分類しているが、個人的にはこの整理は微妙ではないかと感じた。軸がないので、MECEになっているかどうかがよくわからない。結果、この分類にはこういう本がありますよ、でほとんど終わってしまう。

「シンプルに生きる」と「手放す」には共通点がありそうだし、「共感する」と「想像力を働かせる」にも関連がありそうだ。「手放す」と言っても物を手放すのは欲望を手放すのでは意味合いはずいぶん異なるのではないだろうか。

私だったら、外に影響を与える/自分を変える、未来を予測する/現在の選択を変える/過去の捉え方を変える、のような軸で整理するかもしれない。

 

あとがきで「昔の人は不幸を前提としていたが、現代の人は幸福に生きるべきであるということが前提となっている」と書かれていたのはなるほどと思った。

この本の中で仏教は何度も引用されるが、たしかに仏教の教えは人生は不幸であるということが前提にあるように思う。マインドフルネスが仏教から産まれたにもかかわらず成功に資するという異質な目的が置かれているのは現代人の要求に準じたからなのかもしれない。

仏教においては煩悩を捨て悟りを開くことを良しとする。しかし、それは現実に不幸が多く、不幸を回避することに重点を置くならそうかもしれないが、その結果、欲望にまみれた周りの人間に大きく差を付けられた状況を見せつけられたとき、それを良しとできるかは別問題ではないか。結局、捨てたはずの煩悩に悩まされてしまう。

「幸福の研究」ではしばしば語られるように不幸と幸福はひとつの次元に存在するのではない。不幸の回避や回復なのか、幸福の拡大が目的なのか、そういう軸で見ることも必要かもしれない。

歴史を学び直した話

歴史に苦手意識があるわけではないのだけど、まったく縁がない人生だった。理系に進む多くの人がそうだと思うが高校で地理を専攻すると高校でまじめに歴史を学ぶ必要がない。高校でも授業はあったはずだけれど、中学校の知識(しかも不完全)で止まっている。

 

どれくらい縁遠いかと言うと、旅行に行くとその先の史跡の説明で名前くらいは知ってたけどこんなことがあったんだ、と知るくらい。

 

それがこの歳になって多少歴史づいている。たぶんきっかけは大河ドラマを見たことで奥さんの付き合いで見た篤姫だと思う。篤姫自体は歴史好きの人なら(小松帯刀にフォーカスがあたったことを除けば)噴飯もののストーリーだったとは思うのだけど、日本史を知らない私にとって最初は幕府よりだった薩摩藩がいつの間にやら敵になっていく流れはミステリーとして面白く感じた。

 

その後、幕末に関する本を読んだり、青天を衝けを見たりして、明治維新期の異常性に気づいたりもするのだけど、とうとう教科書的な本を読み直し日本史のだいたいの流れを把握するに至った、というのが現在の状況。

 

今から振り返ると中高の日本史の授業がつまらないのも頷ける。別に日本に限った話ではないだろうけれども、教科書における日本の歴史は権力争いの歴史と言ってもいい。個別の権力争いはドラマチックと言っても良いと思うのだけど、そのダイジェストが面白いわけがない。サッカーの試合を見ずに勝敗だけを追うようなものだ。

 

よく歴史の勉強に大河ドラマは是か否かという議論があるが個人的には圧倒的に是だと思う。教科書的な本を読んでいると、名前から顔が浮かぶかで理解に大きく差が出る。正直、大河ドラマを見ていない箇所(大化の改新とか室町幕府とか)は文章を読んでいてもピンとこない。

 

もうひとつ思うのは歴史の授業が古代から順番に始まるのはどうなのだろうか、と。教科書的な本を読んでいると古代が長すぎてそこで力尽きそうになる。現代に繋がる様々な出来事は当然近年の方が多い。日本がアメリカと戦争していたなんてことを知らない人がいるのも致し方ない。

 

まずざっくりと600年頃までに天皇が支配する日本の原型ができあがり、1200年頃に武士に権力が移り、1850年あたりで国民国家になり、1945年の終戦とともに今の日本になるみたいなところから入っていった方がわかりやすいのではと思う。

 

まだ先の話だが子供にはそういうふうに教えてあげたい。

今年読んだ/見たおすすめの本・動画

年末らしく今年のおすすめの本3選と思ったのだけど、子育てと仕事が忙しくてあんまり読めておらず2冊しか思いつかなかったので3つ目は動画を選んでみた。

その1「遺伝と平等(キャスリン・ペイジ・ハーデン)」

この手の本は大好きで「頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か」は愛読書と言ってもよい。とはいえ、さすがに古くなっていることもあって、情報のアップデートも必要だよな、と買ってみたら大当たり。想像を超える素晴らしい本で大変感銘を受けた。

知っている人は知っている話ではあるのだけど、現在の研究では人の知能は平均的にはほとんど遺伝と育った環境で決まってしまう(身体能力に至っては、さらに遺伝の影響が極めて大きい)。もちろん、これは「平均的には」という注釈付きで個々人の能力が必ずしも遺伝や育ちで決まるわけではないのだけど、人生うまく行かない人にとっては「親ガチャ」を恨みたくなるのが人情であろう。

この「遺伝と平等」のすごさは、このような遺伝や育ちによる格差を前提としたうえで、もう一段先の議論を始めるところだ。

かつて目の悪い人は障害者として扱われた。しかし、メガネの発明により健常者と変わらない扱いに変わった。遺伝の影響が現状あるとしても、その影響が無視できる世界を作ることはできないだろうか。

ある遺伝的特徴が優れているとして、しかし、その「優れている」は社会的に決められているだけで、違う社会では必ずしも優れているとはみなされないかもしれない(平安時代においては痩せているよりもふくよかな方が好まれたように)。

個人を構成する様々な特徴が「遺伝と育ち」に大きな影響を受けることは事実だ。しかし、その影響をどうとらえるかは人間や社会の側の問題だと言うこともできる。

絶望の中に一筋の光をともす、とても前向きな議論に思える。

 

その2「時間は存在しない」

この書籍の内容は必ずしも物理学者のコンセンサスではない(というより確かめるすべはない)のだが、読んだ感想としてはたいへん腑に落ちる内容だった。

著者の主張を端的に書けばこうなる。

「時間というものが物理的に存在するわけではない。(様々な宇宙のうち)我々のいる宇宙がたまたまエントロピーの低い状況から始まったが故に、確定状態と不確定状態を過去/未来として認識しているに過ぎない。過去を記憶しているのは観測され確定しているからで、未来が見えないのは観測されておらず不確定だからだ」

予定説破れたり。自由意思があるかはわからないが、運の要素はありそうだ。安心して選択し運をつかみ取ろう。

 

その3「光と色彩の科学~光と色を通して観る物性物理学」

色の話からスムーズに量子論に入っていく流れは本当に見事。この動画は高校生のときに見たかったね。

たまに大学とかが公開している講座は見るのだけど「面白い」というレベルにまで至っているものは意外に少ない気がする。