hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

老害の誕生

近年ラジオをよく聞くようになっていたから、ピエール瀧の逮捕には大変驚かされた。ここ数年、ピエール瀧リリー・フランキーが映画に出過ぎ問題がしばしば取り沙汰されていたが、こんな結末になるとは思いもよらなかった。

個人的には、逮捕されたとはいえ、麻薬で逮捕であり 20 代の頃からの常習者だったようだから、節度ある使い方をしていたわけで、役者や CM に引っ張りだこの状況で立場的にやっちゃだめだろ、とは思うものの、行為自体には特にどうも思わない。日本にもヒロポンが広く使われていた時代もあったし、ある種の宗教、音楽ジャンル、文化スタイルとは切っても切り離せないものでもある。スティーブ・ジョブズLSD に影響を受けた人だし、ついこの間はイーロン・マスクが番組で大麻を吸っていた。もちろん、素晴らしいものであると言いたいわけでもない。アルコール依存症がそうであるように、危険度の高い嗜好品であることには変わりない。リスクある嗜好品をどこまで許容するかは国民の総意が決めることだ。日本では一律 NG という判断がなされており、そこには合理性がある。だから、逮捕されるべきではなかったなどというつもりはない。

むしろ関心は、ピエール瀧逮捕の結果、過去の出演作や音楽作品の販売・配信が一斉に停止してしまったことの方にある。ただ、一般に言われている「他人に迷惑かけたわけでもないのに配信停止は過剰反応では」という論点とは多少異なる。むしろ、ピエール瀧が連続レイプ殺人魔であったとしても、作品は切り離して扱うべきなのか、ということの方にある。

ぷらすと by Paravi という番組で、映画・音楽ジャーナリストの宇野維正氏がマイケル・ジャクソンという天才が生み出した偉大な芸術を過去のゴシップ程度で潰すべきではないという論陣を張っていたが、私も感情的にはまったく同意見だ。犯罪は犯罪、やはり憎むべきものであるが、天才の生み出したものはそれ以上の価値のある希少なものだと感じる。被害者がいるのに、彼・彼女らの感情は無視するのか、という批判がある。たしかにそうなのだが、天才の価値はそれらの犯罪行為すら過小に評価せざるを得ないくらい重要であると思いたい。

誤解を恐れずに言うならば、犯罪行為はある意味「現実の」出来事だ。下世話で、狭く、閉じた世界の一部の人々の話である。一方で、天才の為したことは、世界に広く影響力を及ぼす。犯罪はどこにでもあり、誰にでもできるが、天才の偉大な成果物は希少であり貴重だ。

人権無視の酷い発想のように思えるかもしれない。しかし、これはほんの数年前までは一般的な捉え方だった。スティーブ・ジョブズのひどい人間性も、ロマン・ポランスキーの悪行も皆知っていながら、それを許容してきたのだ。

私に限って言えば、今でも天才の為したことの方が、その犯罪行為より重要だという考えを捨てきれない。しかし、このような考え方自体が古臭いものになりつつあることはひしひしと感じる。今はまだ MeToo 運動が一過性の出来事に見えているから抵抗する人も出てくるが、時代が移っていけば「何を当たり前のことを言ってるの?」となる可能性は否定できない。

チンギスハーンが攻めてくるたびに村人全員が虐殺される時代と現代では、殺人に対する倫理的な観念が異なるように、あるいは、今ではオフィス内でタバコを吸うことが異常なことになったように、「天才性」よりも「社会規範を守ること」の方が重視される時代になりつつある。個人的にはそのことをとても寂しく感じるけれども、時代が変われば物事の捉え方、その基準も変わっていく。当時は人気があった人が、その後顧みられないこともよくある話だ。

なるほど、こうして老害は生まれるのだな(と地球最後の男的なオチ)