hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

確率を解釈する

世間的には因果推論の話題ばかりだが、因果以前に確率の理解すら覚束ないので「現代哲学のキーコンセプト 確率」という本を読んでみた。

 以前、議論になったので、頻度確率と主観確率のふたつがある、ということは知っていたのだけど、科学哲学方面の理解は(予想していたものとは)かなり違っていて驚いた。

まず、確率には頻度論に代表される「世界ベース」の確率とベイズ推定でしばしば言及される主観確率に代表される「情報ベース」の確率がある。「世界ベース」というのは、サイコロを振ったら6分の1の確率で1が出る的な普遍性のある確率で、中高生が学ぶ確率といえばこちら側の概念だ。

しかしながら、その代表である頻度確率は科学哲学側ではあまり適切な解釈だとは思われていないようだ。なんと言っても、頻度は過去のデータであって、それが未来の予測にまで使える保証がない。統計の世界では IID(独立同一分布)を仮定することで予測に使うが、それ自体に根拠があるわけではない。単に便利で常識的だからに過ぎない。

統計の世界も科学の世界と同じく意外に実利的だ。確率は頻度です、という表現は科学哲学の議論を読む限り厳密には間違いというべきかもしれないが、そのように捉えても実用上特に困ることはない以上、(ベイズでない)統計学は(専門家が書いた専門書であっても)頻度をベースにしているという説明で良しとされている。

そう考えると、「重回帰分析を使って因果関係があると書いているが、因果関係を求めたいなら統計的因果推論を使うべき」、というような言論は適切ではないだろう。科学哲学では因果が定義はいまだ定まっていないということになっているし、逆に統計的因果推論を使ったからと言って確実に因果関係があることを示せるわけではない。重回帰分析であっても、条件を満たせば因果推論と同じことが言える場合もある。ようは「因果関係があるかもしれなさ」の根拠がどれだけあるかだけの話だ。実利に従って判断すればいい。

本書を読む限り、現代では「客観的ベイズ主義」と「傾向性解釈」が今風の確率解釈であるようだ。前者の「客観的ベイズ主義」は「主観的確率解釈」に対する「各人が勝手に確率を決められるなら比較できないじゃない」という問題提起に対し「主観確率は過去のデータからの合理的推論によって制約される」という制限を入れようという考え方のようだ。「情報ベース」でありながら「世界ベース」も包含できるので、たしかに良さそうにみえる。

もうひとつの「傾向性解釈」は、ものに「重さ」があるように、物事には特定の状況で「傾向性」があると考える解釈だそうだ。正直、言葉遊びのように思え、よく理解できなかった。

「客観的ベイズ主義」も、同書で指摘されるようにたしかに無理やり感はあり、それは本当に「確率の解釈」なのかと言われると微妙な顔になる気持ちはわかるけれども、あくまで統計ユーザーが使うには便利な解釈であるように思える。