hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

日本の労働生産性はなぜ低いのか(おかわり)

以前、「日本の労働生産性はなぜ低いのか」というエントリを書いた。

先日、Twitter にて 日本の統計データの分析について積極的に発表されている小川製作所さんとやり取りさせていただいた中で、新たに気付かされたことがあった。

まず、下記のツィートのグラフを見てもらいたい。

 

前述のエントリで書いたように労働生産性を考える場合には購買力平価換算ひとり当たりGDPを見るのが一般的であるが、日本においては少子高齢化が進みすぎ大きく歪んでいるであろうことはすでに触れた。

これに対し最近、クルーグマンの「生産年齢人口を基準に見る必要があり、その点では、生産年齢人口一人当たりの実質GDP成長率は、日本はアメリカよりも高い」という主張を引き合いに出す議論を見かける。

これに関してはクルーグマンの主張の方に問題があるように思える。日本は少子高齢化しているだけでなく、高齢者の就業率も徐々に上がっており決して無視していいような数字ではない。この方法ではひとり当たりの労働生産性は過大評価されてしまう。

では、就業者ひとりあたりのGDPを見ればいいのかというと、そうではない。日本では55歳で役職定年、60歳で定年・再雇用という形で本人の能力とは関わりなく低熟練・低賃金業務(多くの場合、短時間勤務でもある)にシフトするのが一般的となる。このため、少子高齢化が進めば進むほどひとり当たりの労働生産性は過小評価されてしまう。

これを踏まえると日本の労働生産性を議論するベースラインとしては購買力平価換算労働時間あたりGDPとするのが良い。これがツィート内のグラフとなる。

これを見るといまだ韓国よりも高い生産性を保っているとはいえ、欧米諸国には大きく引き離されているだけでなく2014年以降傾きが緩やかになっていることがわかる。

多くの世界的大企業をかかえ、移民も多く、いまだ人口増加も続いているアメリカに引き離されているのは納得できるが、イギリスやイタリアからも大きく引き離されている(50%以上高い)のは謎である。ここが明確化できれば日本の労働生産性が低い謎も解明できるかもしれない。

 

購買力平価換算労働時間あたりGDPを理解する上で調整が必要な要素は何があるだろうか。

まず、前述の少子高齢化による高齢者の増加の影響がある。就業者総数に占める65歳以上の就業者全体の13%を占めている。高齢者の就業率はアメリカこそそこそこ高いが、ヨーロッパでは数%程度と大きな開きがある。日本の高齢者は数が多いだけでなく就業率が高いため、労働生産性には大きな影響を与えると考えられる。

単に就業者の違いがあるだけでなく、労働慣行の違いもある。日本では年齢により自動的に低賃金労働に移行を促されるが、ジョブ型雇用であるヨーロッパにはそのような慣行は少ないようだ。高齢者の就業が必ずしも生産性を引き下げるわけでない。ドイツはヨーロッパの中でいち早く高齢化が進んでいるにも関わらず、日本のように労働生産性の低下が発生してないことがさきほどのグラフからもうかがえる。

また、日本は少子高齢化による労働力不足を補う形で女性労働者が増えている。これ自体は望ましいことではあるが、女性労働者の増加は特に日本においては低熟練・低賃金業務中心に増加するため労働生産性を下振れさせる原因となる。男性就業者は減少する一方で女性就業者は増加している。

加えて、非正規雇用の増加も影響しているとみられる。高齢者、女性が増えれば非正規雇用が増えるのは当然であるが、その他の年齢/性別階層においても非正規雇用率は上がっている

もうひとつ見えにくい要因として失業率や労働時間も影響していると考えられる。失業率が少ない=ヨーロッパでは失業しているような人が日本では低熟練・低賃金労働で働いているということに他ならない。日本の失業率が2.5%程度の水準で推移しているのに対し、イギリス 4%台、イタリア 8% 台となっている。一方で日本の就業率は低い。これは女性の就業率の低さが影響しているものとみられる。

ヨーロッパ諸国では日本よりも残業が少なく総労働時間が短い。多くの実験でも週40時間労働を35時間に減らす程度では生産性は下がらない、と言う結果がでている。現代社会は頭脳労働が中心であるため、労働時間の減少が直接産出減少につながらず、生産性を向上させているものと考えられる。

 

これらの原因が時間当たりGDPの差をどこまで埋められるのかはわからない。しかしながら、女性の社会進出の遅れ、高熟練・高賃金の労働者が増えない、高齢者の技能を生かさない、という日本の労働環境、労働慣行がその原因のひとつであろうことは疑いないように思える。