hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

カルビーの失敗から学べること

カルビーがKPI導入の失敗から、それをどのように解決したかという記事を読んだ。

この記事を読んで、最近思っていることがちょうど重なった。

経済学や経営学に限らず、最近はエビデンスを重視する傾向が強まっており、それ自体は根拠もなく勘と経験に頼ってきた過去の反省に基づいているという点で大変よいことではある。しかしながら、一方でエビデンスに頼り過ぎることの弊害を感じることも増えてきた。

それは何か。

古くからあるジョークとして「街灯の下で鍵を探す」というものがあるが、人は得てして客観的に見ようとするあまり、見えやすい問題にばかり注力してしまい、見えにくい問題を無視してしまいがちだ。

物事には客観的に観測しやすいデータと曖昧模糊として表現のしずらい情報が混在している。例えば、営業活動ひとつとっても、訪問回数であったり訪問時間であったりは観測できるが、客先との人間関係の構築のうまさをデータとして表現するのは大変むずかしい。

もし、営業の成果指標を訪問回数や訪問時間として定義し評価軸としてしまうと、そればかりに注力してしまい実際の営業活動の成果は悪化してしまうかもしれない。

多くの会社で売上を伸ばせという目標が立てられているが、これにも同じ問題が隠れている。売上至上主義になると利益度外視で販売してしまいがちになるし、売上は低いが利益率の高いような商品は無視されることになる。利益至上主義にはそこまでは弊害はないかもしれないが、ロングテールや評判といった見えにくい指標を無視しがちであるという点では同様の効果を持つかもしれない。

カルビーが出したこの問題への回答「あくまで指標は結果であり評価基準として使わない」は、妥当な結論だと思う。指標を公開し、それを営業マンが分析する道具という役割に徹するのであれば、営業マンの行動を誤誘導することはない。

私が思ったのは、「ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学」で紹介されていた「優れたビジョンの基準」もその答えになるのではなかろうか、という点だ。バウムらの研究によれば、優れたビジョンには「簡潔明瞭である程度抽象的である」ことが重要であるとされている。

経営者は利益○%を増やせと叱咤するよりも、「我々の製品を使い、世界中の人々を豊かで快適な住環境に貢献する」といった抽象的で方向性のわかるビジョンを示したうえで、営業マンにもあなたはこの一年そのビジョンの実現に貢献したかを問うというのもひとつの解決策かもしれない。

なぜ労働時間規制は政府が行わければならないか

昨今、ブラック企業問題が新聞を賑わせたこともあって、労働時間の上限規制を強める方向に動いている企業も少なからず出てきているらしい。もちろん、これはいいことなのだけれども、労働時間規制は個々の企業に任せていいかのように思うとしたら考えものだ。

なぜ、労働時間規制を政府が行わければならないか。ひとつには、労働時間というものが競争条件のひとつとなっているからだ。もし、ある善良な企業が労働時間に上限を定めたとしても、悪徳ブラック企業がより多く働かせるならば、結果として悪徳ブラック企業の方が競争上有利になり最終的に生き残る確率が上がるかもしれない。しかし、政府が行うならば、どの企業も一律に規制がかけられるので、個々の企業の有利不利に影響しない。

もうひとつ考えられるのは、労働時間に対する他のサービスの依存関係の問題がある。現在の日本では24時間のサービスが当たり前に提供されているが、労働時間規制が厳しい国ではどの店も早い時間に閉まってしまうそうだ。これはサービスレベルの低下ではあるのだが、逆に言えば早い時間に閉まっても、問題なく生活できるような環境になっているとも言える。

労働時間が長かったり、就業時間帯がまちまちだと、社会もそれに見合ったサービスが提供され、結果として長時間労働や変則的な就業時間が増えてしまう。例えば、正月営業などは、予め営業していないとわかっていれば事前に買いに行くのに、営業することで客足が分散しサービス生産性は下がってしまう。もし、政府が一律、正月営業を禁止してしまえば、利便性もさほど低下させず高いサービス生産性を保つことができる。

一方で、労働時間規制を行えば、日本の生産性を低下させてしまうのではないか、と懸念する人がいる。正直、この懸念には根拠がないのではと考える。

労働時間規制で有名なフランスやオーストラリア、ニュージーランドなどどの国を見ても、ひとりあたりの購買力平価換算GDPは日本と同等かそれ以上にあり、労働時間規制がGDPに強く影響しているようには思えない。

また、今の日本の場合、正規雇用労働者の労働時間がかなり長時間になる一方、非正規雇用の増加が平均としての労働時間を緩和するという状況になっている。労働時間規制は、正規雇用者の労働時間を緩和する一方で非正規雇用者に正規雇用者への道を開くことになる。非正規雇用者は企業にとっては便利な存在でも、職務上スキルの向上に繋がりにくく、社会全体としてみた場合、長期的な生産性を下げると考えられている。安い労働力は消費の低下に繋がり結果的に経済を縮小させてしまう。

それ以前の話として、過労死ラインは月80時間の残業とされており、労働者が亡くなったり、働けない状況になれば、貴重な労働力を毀損し長期の生産性を引き下げることは言うまでもない。今の日本では、裁量労働制の導入や36協定さえ結べば合法的に青天井に近い状態を作ることが可能になっており、事実上、労働時間規制が存在しないという異常な状況にあることはもっと知られてもよいように思われる。

少なくとも日本においては労働時間規制は単に労働環境を改善するだけでなく、雇用問題を改善し、長期的な生産性にも寄与する一挙両得の策だと考えられる。

このたび、悪名高き民主党が「長時間労働規制法案」を出すとの話を聞き、及ばずながら援護射撃をしてみたいと思い書いてみた。日本人の求めるサービスレベルの高さもあり、ヨーロッパ並の労働時間規制は難しいかもしれないが、例えば過労死ラインを上限にする程度の規制ならばさほど大きな混乱もなく導入が可能だろう。労働時間規制が結果的に日本経済の成長に寄与するという理解が得られれば幸いに思う。

キチガイ経営者セムラーの経営手法が超合理的だった件

タイトルには多少語弊がある。このエントリを要約するなら「セムラーという経営者はキチガイに違いないと勝手に思い込んで著書を読んでみたら、あまりにも合理的で驚いた」だろうか。ただ、セムラーの経営手法を知れば、あなたもきっとキチガイだと思うだろう。

セムラーを知ったのは「モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか (講談社+α文庫)」の巻末にある次の紹介文を読んだことにはじまる。

Maverick: The Success Story Behind the World's Most Unusual Workplace

(邦訳『セムラーイズム』ソフトバンククリエイティブ、ほか)

多くの上司がコントロールマニアなのに対し、セムラーは最初の自律マニアかもしれない。彼は、ブラジルのセムコというメーカーを、一連の大胆な改革によって一変させた。ほとんどの役員をクビにし、肩書をなくし、三〇〇〇人の従業員に自分で勤務時間を決めさせ、重大な決断では全従業員に投票を認め、一部の従業員には自分で給与額を決めてもよいと認めた。その結果、セムラーの指揮のもと(あるいは無指揮のもとで)、同社はこれまで二〇年にわたり、年間二〇%の成長を続けている。因習を打破するこの効果的な哲学を、彼がどのように実行に移したか、本書と最新刊『The Seven-Day Weekend』(邦訳『奇跡の経営』総合法令出版)で明らかにされる。 

いやはや、狂気の沙汰だ。普通の企業がベスト・プラクティスだと考えていることをすべてやめているどころか、本当にこれで企業の体が保てるのか疑問に思うレベルとも言える。

ただ、最近の個人的興味として「現在、どの企業でも当たり前のように実施されている施策の中には、実際にはおまじないに過ぎず、必要のないものもあるのではないか」という点があり、このセムラーの本を読めば、そのヒントみたいなものが得られるのではないか、と思ったことから著書を買うことにしてみたのだ。

残念ながら『セムラーイズム 全員参加の経営革命 (ソフトバンク文庫)』の方は品切れ状態になっていた(中古も高い)ので、『奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ』の方を買って読むことにしてみた。

奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ

奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ

 

 読んで驚いた。セムラーはなんとキチガイではなかった。それどころか経営学の推奨する方法論を極限まで推し進めた、ある意味「超合理的」とも言うべき経営手法だったのだ。

具体的に説明しよう。

例えば、従業員に自由に時間を決めさせる、という施策があるとする。一見、最近流行りのフレックスタイム制やリモートワーク推進に似たワークライフバランス向上のための福利厚生の話であるかのように思えるが、根本的なところに違いがある。

工場のアセンブリラインにフレックスタイム制を導入したセムラーは「作業現場の基本要件を無視している。アセンブリラインにフレックスタイム制を導入するなどありえない」という批判に対しこのように語る。

 働いているのは、立派なおとなです。そのおとなである作業員が、どうして業務に支障をきたし、自分達の仕事を危うくするような行為をするというのでしょうか?

 ようは、セムラーの施策は究極のモチベーション(内発的動機づけ)向上策にもとづいているわけだ。

現場の人々に任せれば、彼らの中で話し合い、最善の作業時間を自分たちで決めるだろうという発想なのだ。もし、ある従業員が、家庭の事情でアセンブリラインでの時間に合わせられないならば、工場の責任者と調整してもいいし、担当業務を変えてもいい。そもそもセムコ社では、社員自体が自分のやりたい仕事を決めることになっており、会社の基幹業務すら定められていない。自分自身で社内の居場所を創りだすことが求められている。

セムラーはこのようにも言う。

社員全員が、仕事に情熱を持つことを期待してはいけないということです。仕事に情熱を持つ者もいれば、そうでない者もいます。それから、人は時間とともに、それが何であれ、興味を失ってしまうものだということを認識しておく必要があります。 

……すべての仕事が、情熱を持つに値するものではないという現実に目をそむけてはいけません。

 まったくもっともな話だ。この問題を解決するには、たしかに「自分のやりたい仕事を自ら探してくる」ことが最も合理的になる。

社員が、仕事の範囲を自分自身で決めることができるのであれば、仕事に対する満足度はかなり高まります。セムコ社では、社員に、仕事の責任範囲を押し付けることはしません。一人前のおとなとして、彼らは、仕事で何をすべきか理解すると信じていますし、ガイドラインなどないほうが、彼ら自身が自分のすべき仕事の範囲を、試行錯誤しながら学んでくれます。 

 セムコ社では、万事がこの調子だ。経営会議に社員ならば誰でも早いもの順で参加できるし、経営会議の議題の閲覧も業績会議への参加も(清掃スタッフを含む)社内全員が参加できるなど、あらゆることが広く公開されている。ライバル企業と兼務している従業員すら閲覧を許されているのだ。

そんなことをしては、不正が起こるのではないか、と考えるのが普通だろう。

私が思うに、セムコ社の極端な方針がうまく言っているのは、セムラーのリーダーシップにあるように思う。セムラー自身は、この本でも述べられるように、できるかぎり企業への影響力を行使しないよう務めている。しかし、前回のエントリでも書いたように、リーダーに求められるのはビジョンの提供だ。

セムコ社は、セムラーの「社員を信頼せよ、豊かな人生を歩め」というビジョンと行動により、社員を統率している。不正をすれば、その社員が自分の仕事人生に後ろめたさを覚えることになる。そんなバカバカしいことはするな、というのがセムラーの教えだ。セムラーがいちいち指示しなくとも、セムラーのビジョンを是とする社員ひとりひとりがセムラーの代わりとなってセムラーの理想を実現していくことになる。

セムラー社で働けば、最高の職場体験を得られるのに、なぜ悪事を働いてまでそれを捨てる必要があろうか。以前、「Googleから転職したSEO技術者はなぜGoogleのエンジンのバグを突いたSEO手法を売らないのか」、という話題を見かけたが、それを行うことで Google の優れた元同僚達の怒りを買いたくない(し、その手の問題は一時的にしか有効でない)というのがその答えだった。

子供の教育でも何でもそうだが、○○を禁止する、と言われたら誰しも反発するものだ。むしろ、「お天道様が見ている」、であるとか「素晴らしい人生を歩め」、の方がよほど効果があるということだろう。

本書は、セムラーのすごい経営手法だけでなく、セムラーという人の高徳な行動も大変面白かった。たいへん啓蒙的な一冊なので、ぜひ読むことをおすすめしたい。

 

良い管理職の条件

最近、経営系の本から派生して、管理職に関する本をいくつか読んだのでその話を書こうと思う。

管理職とひとことで言っても切り口は多様にあり、一冊で総覧的に読める本には今のところ出会っていない。一方で、「リーダー」とひとこと書かれていても、経営者、中間管理職、プロジェクト・マネージャー、マーケット・リーダーなどその本で主眼が置かれている役割が異なる場合も多く、文脈を考慮しないと間違った解釈をしてしまう場合もあるように思う。そのため、ここで書かれる話は私なりに大胆に解釈した内容を含んでおり、必ずしも学術的な根拠がないかもしれないことに注意してほしい。

なお、このエントリで参考にした文献は以下の通り。

まず、前述のとおり管理職という用語は曖昧なので、どういう観点にフォーカスを当てるか考える必要がある。最初は、経営者、課長以上経営者未満、課長の三つくらいで分けて考えるのが良いのではと思ったが、むしろワーク・ライフ・バランス(WLB)管理職に関する調査の概要と提言に書かれているような

  • 業務マネジメント
  • 部下マネジメント

という切り口で語るのが適当であろうと思うようになった。経営者に近くなればなるほど業務マネジメントの比重が高まり、課長やチームリーダーなど下層にいくほど部下マネジメントの比重が高まると考えれば、組織のマネジメントもプロジェクト・マネージャーもプロダクト・マネージャーも同じ軸で語れる。

ただ、この2分類の捉え方は日本と欧米では違うところがあるようだ。 Rebuild.fm を聞いたりや ワーク・ルールズ!を読む限り、欧米では、この業務マネジメントと部下マネジメントを分離する志向が強いように感じられる。これは「日本の雇用と労働法 (日経文庫)」にあるように、日本的な「職務の定めのないメンバーシップ型」と欧米型の「職務の定めのあるジョブ型」の違いが要因となっているのかもしれない。

日本ではどうしても給与を上げたければ部下マネジメントは必須であるとする傾向が強い。一方で欧米では、例えば管理職とエンジニア職は異なる職種であり、組織階層上の上下関係はあっても、権限、賃金という意味での上下関係はあまり強くないようだ(ただし、管理職とエンジニア職それぞれの職務としての賃金水準の違いや、エンジニア職内での上下関係はある)。Google 社に至ってはそれがさらに徹底される。

グーグルではリーダーシップと肩書きは一致していませんでした。私は最高の業績をあげている部下にリーダーシップを発揮する機会を与え、肩書きの権威なしでリーダーシップを発揮する技術を学べるよう援助したものです(中略)私たちは、肩書き以外でヒエラルキーを表したり強化したりするものも排除した。つまりグーグルでは、再上級幹部であっても新入社員と同じ便益、特典、資源しか受け取らないということだ。

上述の文献を読む限りでは、「部下マネジメント」の文脈において、少なくとも、優秀な末端社員(例えば、優れたプログラマ、優れた営業マン)は、管理職に引き上げるのではなく、管理職と同等(あるいはそれ以上)の給与を持って遇する方が望ましいようだ。これは逆の面からも裏付けられる。Google の人事トップが「良いマネージャーとは何か」を調査した Project Oxygen の結果(Work Rules! から何が学べるか - A.R.N [日記]参照)でも「チームに助言できるだけの重要な技術スキルを持っていること」は、良いリーダーの条件ではあるが、一番重要ではない条件として挙げられている。 

ようは良い「部下マネジメント」を行う上で優れた業務スキルはさほど重要ではないということだ。社員が退社する最大の理由は、給与や仕事のミスマッチなどよりも上司との関係であるというデータもあるようで、良い「部下マネジメント」の実現は会社にとっても重要な要素であるわけだから、不適切な人員配置は大きな損失に繋がってしまう。

では、良い「部下マネジメント」において重要なこととは何か。

それは、マイクロ・マネジメントをやめ、インセンティブ(外的報酬)とモチベーション(内的報酬)に働きかける、ということだ。「モチベーション3.0」では、インセンティブよりもモチベーションの方が重要であるとするものもあるが、インセンティブは金銭的なものに限らず「良いことをした場合には誉める」といったものもあるので、必ずしもどちらがより重要とは言えないように思える。

ただし、インセンティブ(外的報酬)が重視されすぎているのは事実で、例えば「幸福の経済学」では概ね年収800万~1200万で所得から得られる幸福は頭打ちになるとされている。また、金銭や肩書きによって得られた幸福は短期間しか持続しないこともわかっている。経営学でも経営者への高額報酬とその成績にはなんら関連性がないことはよく知られている(このことは教科書的な経済学を使っても限界効用逓減や余暇と消費の選択モデルからも導き出せる話のように思える)。

ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学」では、金銭を与えるということではなく「部下が自分の成果に対して『きちんと評価されている』と満足できることで、そのさらなる行動・成果を促す」ことが重要であると書かれている。以前、「褒めるべきか叱るべきか、それが問題だ。 - hidekatsu-izuno 日々の記録」でも書いたように「行動を促す」ことが重要であり、金銭や役職、誉める/叱るといったことはそのための手段に過ぎないと考えるべきなのだろう。

一方のモチベーション(内的報酬)という面では、「優れたリーダーに学歴は関係ない。Googleが自社社員をデータ分析して得られた意外な知見 | ライフハッカー[日本版]」の記事のように「自主性を重んじる」ことが重要とされており、「部下の自主性をサポートする」のが良い上司であるとされている。同様の指摘は複数の文献に記載されているが、(単純な作業労働ではない)クリエイティブな職種においては特に重要とされている(私がいるシステム開発業界の場合、クリエイティブな職種と呼んでいいのかどうかがむしろ問題かもしれないけれども……)。

また、学術的な理屈はよくわからないが、実務よりの文献の多くで、部下と高い頻度で直接コミニケーションを取る(例えば半期に一回面談を行うなど)ことが非常に有効であると指摘されている。例えば、先日亡くなった岩田聡(元任天堂社長)氏は社長になった後も末端の開発者含め多くの社員と何度も直接ヒアリングしていたそうだ(曰く、「あれはメリットしかない」)。「HARD THINGS」でも、著者が当時の部下に対し「今すぐ部下と面談しないなら、お前はクビだ」と怒鳴りつけるという場面が出てくる。もしかすると、状況把握や仕事の方向性をつかむ最善の方法なのかもしれない。

一方の業務マネジメントであるが、これについて書かれている文献はいずれも同じことしか書かれていないように思える。

それは意外にも「自信満々のように行動し、優れたビジョンを語る」ことだ。一見、具体性のない空虚な話のように思えるが、これこそが決定的に重要だと考えられている。事実、「CEOが優れたビジョンを持っている企業ほど、事後的な成長率が高くなる」という結果が多くの研究で得られているそうだ。

まず「自信満々のように行動し」という部分だが、しょせんひとりの人間ができることなど限られているので物事を成し遂げるには周りの人々の協力が必要となる。そのためには事実であろうとなかろうと「彼は組織や業績をコントロールしている」とみなされる必要がある。影響力がないように見える人には誰も協力などしないというわけだ。

そして「優れたビジョンを語る」という部分では、実際に実現できるかどうかわからなくとも、自信を持って未来を語れば、それを部下はきっと実現できるに違いないと勘違いし努力を重ね、結果として夢のような未来が実現してしまう、という面があるようだ。ソフトバンク孫正義氏などまさにその典型だろう。このことは、「高い企業価値は新奇性の高さが決める」という経営学の結論とも整合的であるように思える。

ただ、この「啓蒙」型リーダーシップは、「不確実性の高い事業環境」では有効に働くものの、「事業環境が安定している」場合にはむしろマイナスに働くとのことなので、足元の事業環境を正しく見極める必要はあるようだ。「HARD THINGS」でも述べられていたように、有事のリーダーと平穏期のリーダーでは異なる能力が求められているということだろうか。

なかなか現実には日々の業務に追われ、良い管理職あるいは良いリーダーシップにはなかなか思いが至らないが、皆、人生の多くの時間を職場で過ごすのであるから、健全で生産的な職場環境を大切にしたいものだ。

2016/3/29 追記

前述の本では出てこなかった「一貫性」というトピックに最近フォーカスが当たっているようだ。

たしかに上司が気まぐれだとどう振る舞えばよいかよくわからない。プロジェクトにおいて見通しを示すことが重要であるように、管理職の振る舞い自体にも見通しを求められているのかもしれない。

Cooking as code

ただのネタなんだけど、cookpadあたりやってくれないかな、という期待を込めて書いてみる。

Twitter を眺めていたら、

という話が出ていた。

おぉ、これはわかりやすい。正直なところ現実のプログラムは複雑過ぎてフローチャートにするとむしろわかりにくくなるのだけど、料理のテキストに比べれば遥かにわかりやすい。さすが情報工学と言われるだけのことはある。

ただ、このフローチャートを見て思ったのは、むしろビジュアル・プログラミング 言語に親和性が高いのじゃなかろうか、と思ったのだ。いや、むしろビジュアルプログラムすらいらない。昨今、Infrastructure as code という概念が流行っているが、その延長線状に cooking as code という世界があってもいいではないか。

1年ほど前、自炊を始めたのだが、最初の一週間は何をやってもしょうゆの味しかしない。いろいろ調味料を増やして多少はマシになったのだけれども、どうにも飽きやすい私という人間には耐えられなかったと見え、結局ほとんどやらなくなってしまった。

もし、料理がプログラミング言語で実現できれば、私にもできるかもしれない。cookpad 上の recipehub からレシピをダウンロードしてビルドすれば料理の出来上がり。自分ごのみの味付けにしたければ、Recipefile を自分用に書き換えればいいみたいな。

もちろん、料理とシステムインフラには大きな違いがある。システムインフラと違って、料理の材料は多様だ。Recipefile をビルドするには自動発注システムや万能料理装置が必要になってしまう……あるいは人力ビルドを行うか。

とはいえ、まずは料理記述を定型化することは、非常に重要なことのように思える。料理記述言語とそのHub化の運用が軌道に乗れば、最適化アルゴリズムを使って、料理手順を効率化したり、よくある手順を共通化(=メソッド化)し提供する企業が生まれるかもしれない(アク抜きメソッド実行済みみたいな)。そこまで実現できれば、昨今の大手飲食チェーンが行っている、最終調理工程以外はすでに料理済みみたいな世界が実現できるかもしれない。

まぁ、本当に意味があるのかはともかく、主婦たちが日々の食事を提供するために必死にプログラムを書き続けるという光景はなかなかにシュールではある。

性別、国籍、年齢の多様性は組織にマイナス

世界の経営学者はいま何を考えているのか」の著者、入山章栄氏の新著「ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学」に面白い話が載っていた。

ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学

ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学

 

 大昔は、学者の書く本と言えば、一般受けのしないお硬いタイトルの本が多かったけれども、スティグリッツの邦訳はじめ、昨今はキャッチーなタイトルも多くなった。一見、トが付く類の煽り書名だが、中身はたいへん面白かった。

特に13章の「日本企業にダイバーシティー経営は本当に必要か」は、センシティブな話題も含み大変興味深い。正直、ビジネスの業界用語に疎い当方としては、ダイバーシティと言われても、お台場のあれしか思い浮かばないのだけれども「人の多様性」を意味する言葉だそうだ。たしかに、女性比率を上げようとか、人員登用の国際化とか、しばしば耳にする話題ではある。

著者(の語る最先端の経営学での知見)によると、まず人の多様性と言っても、

  • タスク型の人材多様性:実際の業務に必要な「能力・経験」、例えば、多様な教育バックグラウンド、多様な職歴、多様な経験など
  • デモグラフィー型の人材多様性:性別、国籍、年齢など、その人の目に見える属性の多様性

の2種類があるそうだ。

そして、それぞれのパフォーマンスについて検証した結果、前者については組織のパフォーマンスにプラスの影響を与えるものの、後者については、組織のパフォーマンスに影響を及ぼさないか、むしろマイナスの影響を与える、との結論が得られた。

経験のバックグラウンドの多様性が組織に良い影響を与えるという結論は、知識の多様化により不確実性の高い出来事への対応や新たなビジネスの展開が容易になるという点でたしかにそうだろうと思える。

一方で性別、国籍、年齢の多様性がむしろマイナスに働くという結論は一見不可思議だ。サンデルNHK DVD ハーバード白熱教室で、多様な国籍や性別を迎えることが大学にとって良いことであるという観点から、アファーマティブ・アクションを擁護したのとは対照的に思える。

後者の原因として挙げられているのは、目に見える属性によって人間関係のクラスタが出来やすいという単純な理由だ。たしかに、世界どこにいっても、○○人街のように国籍でコミュニティができていることが多い。人間関係を見ても、同年齢での繋がりに比して、異なる年齢層が混在したグループというのはそうそうはできないように思える。人類みな兄弟という言葉とは裏腹に、人種、民族、宗教による対立がいまだ無くならないどころか拡大している現状は、前述の結果を裏付けているようにも思える。

大学という見識を広げる場では有効でも、組織という目的を達成するための場においては協調することの方が重要だということなのかもしれない。

それにしても以前、「女性だけで企業を作るべき理由」というエントリを書いたのだけれども、意外に核心を突いていたのかもしれない。同書でも、人脈という観点から、女性の内部昇進にはハンディキャップがあることが紹介されている。

男性社員は男性社員と、女性社員は女性社員とつながりやすく、結果、性別による「ホモフィリー(似たもの同士がつながりやすいこと)な社内人脈」ができるのです。

そして多くの日本企業は男性社員が大半ですから、必然的に「男性のホモフィリー人脈」 が厚くなり、よくも悪くもその中でインフォーマルな会社情報がシェアされるようになります。企業幹部の多くは男性ですので、経営方針、人事制度の変更、社内の異動情報などのインフォーマルな重要情報は、いち早く男性の人脈内で回され、男性はますます情報優位になります。

 同書では、他にも「ブレストのアイデア出しは効率が悪い」、「補完性、囲い込みは企業価値に影響しない一方で、新奇性こそが高い企業価値を実現している」など、他にも面白い話題がたくさん書かれている。文章的にも堅苦しくなく、気軽に読めるので、たいへんお買い得な一冊だ。

低額のベーシック・インカムじゃダメなの?

フィンランドベーシック・インカムを導入するのでは? という観測が流れ話題になっている。

どうも、この話まだ検討中の内容にすぎないということで、この社会実験の実現はまだまだ先のことになりそうなのが残念ではあるけれども。

ベーシック・インカムと聞くと直観的に正しくないと感じてしまったり、究極の社会主義のように思ったりする向きもあるようだ。しかし、ベーシック・インカムには合理的な基礎があることはもっと知られて良いのではと思う。

負の所得税という言葉を聞いたことがあるだろうか。これは文字通り最低の所得税をマイナス(すなわち所得水準が低い人々には給付)する政策で、リベラルの巨人ミルトン・フリードマンが提唱した政策だ。負の所得税の考え方は現在では給付付き税額控除という形で様々な国で採用されている。

ベーシック・インカムは累進的な所得税と組み合わせることで、事実上の負の所得税として機能することが知られている。しかも、負の所得税の欠点である所得把握が不要、要件による排除が起きないという大きなメリットも持っている。社会主義的な政策である一方でリベラルで合理的な裏付けもあるという、なかなかに面白く興味深い制度となっている。

過去に書いた内容の焼き直しになるけれども、個人的には月額2~3万円程度の低額のベーシック・インカムから始めてみてはどうだろうかと思う。「アダプト思考」ではないけれども、何事もビッグバンで始めることはない。良かれと思って始めたことが、失敗するなどよくあるのだから、いったんそのレベルで様子を見るのがいい。

月額2~3万円なんて財源はどうするんだと思われるが、同額分、所得税増税生活保護、年金の減額を行えば、社会保障の枠から外れた人たちだけの財源で済むのだから、たかがしれている。この度、せっかくマイナンバーを導入することになったのだから、国民口座もついでに開設してワンセットで運用すれば給付も納税も効率よい運用が可能になるのではないかと思うのだけれどいかがだろうか。