hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

ガルム・ウォーズ見てきたよ

私を含むある一定の世代の人々にとって押井守は崇拝される存在である。実際のところ、宮﨑駿の圧倒的な認知度に比べ、押井守の世間的な知名度が低いことは請け合いなのだが、クリエイター系の人々への影響という意味では宮﨑駿を遥かに凌ぐ。映画「攻殻機動隊」の複数のシーンがまんま「マトリックス」にパクられているのは有名な話だが、パトレイバーの影響下で作られた「踊る大捜査線」など、その影響はハリウッドや日本の大ヒット作にも及んでいる。アニメーションにおいても、レイアウトシステムや広角レンズを用いた演出は押井守作品の影響と言っていい。歴史的な側面では、パトレイバー2が地下鉄サリン事件の予言的作品となったことも挙げて良いだろう。

近年、インターネットの発達でパクリが顕在化し問題になることが多いが多いが、町山智浩氏の様々な映画の解説を聞くと、映画のパクリは、むしろ和歌の本歌取りに近く、2時間という限られた時間の中で映画に意図を込める重要な役割を果たしていると考えた方が良いのだろうと考えるようになった(押井映画にも古いヨーロッパ映画からの引用が多数あるようだ)。

そういう意味で、多くの映画監督に引用された押井守の映画史における役割は、日本人クリエーターの中でもトップクラス。黒澤、小津に匹敵する人物と言っても過言ではない。

さて、もちろんこの後、ガルム・ウォーズについて語るわけだが、同じ調子で褒めるわけでは当然ない。この作品を見て、押井守という人物を過小評価してほしくないだけだ。私はアサルト・ガールズを基準に見に行ったので、予想外に素晴らしいものが見れたと感じたが、古き良き押井映画を期待したならば残念としか言いようのないものだったと想像するし、普通の映画ファンであればなんじゃこりゃと思っても不思議ではない代物ではあった。

近年の押井映画の評価の難しさは、天野喜孝のイラストのそれと近いものがある。たしかにこの作品は押井守以外の映画監督には決して作れないものである。その意味で凡庸ではない。しかしながら、素晴らしいかと言われれば、否定の言葉しか出てこないだろう。

まず映像。そのビジュアルイメージはやはり圧倒的で、今作でも航空機や巨神兵、ラスボスのデザインなど素晴らしいものがある。もし、これが新作ゲームのOP映像であれば心踊ること請け合いだ。しかしながら、これは映画なのだ。押井映画でのCGの使い方はいつもテカテカでゲームのOPみたいに見えてしまう。さらに問題なのは、どうもインタビューなどを見る限り、映像的には押井守のお眼鏡にかなう代物らしい。この映像が正解ならば、イノセンス以降CG表現が改善されないのも納得ではある。アニメーションの表現においては、あれほどまでにリアリティある作品作りができるにもかかわらず、実写やCGにおいてはなぜそこまで感覚がずれてしまうのか。

次に脚本。とてつもなく凡庸なだけでなく、人物描写も不自然で、80年代OVAを見ている気持ちになってしまった。押井守に言わせれば神話とはそんなものだ、ということかもしれないが、観客は古代の神話の授業を聞きに来ているわけではない。それに加え、自己パロディが散見されるのにも辟易とする。実写版パトレイバーはそういう作品だから良いとしても、まるで攻殻機動隊、まるでレイバー2、まるでスカイ・クロラ、と過去の作品の焼き直しのような要素が多すぎる(巨神兵に至っては押井作品ですらない)。これらの自己パロディ的な要素をもって、ガルム・ウォーズを押井監督の集大成と呼ぶ人もいるようだが、それは「夢」を黒澤明の集大成と呼ぶようなものだ。集大成とは、宮﨑駿における「風たちぬ」のような作品にこそふさわしい。

そして演出。いくら何でも冒頭からあらすじで説明はなかろう。そして犬。私とて押井映画のファンであるから、現実の身体の体現者としてバセットハウンドを出した意図は理解できるにしろ、映像としては違和感しかない。いつもの押井映画要素とはいえ、ここまで重要な役割を持って全面に出されるとさすがに唖然とする。いや、むしろ、これは古くからある、愛人の女優を抜擢する映画監督のそれなのか。

前述のとおり、見る前から期待していなかったため怒りは特に感じていない、川井憲次のすばらしい音楽に合わせかっこいい映像が流れるという意味で、むしろ鑑賞はとても快適だった。ただ、ひとつの時代を作った偉大な映画監督の才能が急激に減衰していくのを見て、とても寂しく思った。そのことを書いておきたかった。

GARM WARS 白銀の審問艦

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