hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

褒めるべきか叱るべきか、それが問題だ(続)

以前、「褒めるべきか叱るべきか、それが問題だ。」というエントリを書いた。ただ、そのときにはうまく考えをまとめることができず書けなかったことがある。それは、「怒らないためには期待しなければよいのではないか」という点だ。

昨今、「アンガーマネジメント」という言葉が流行っているが、その方法論のひとつに「こうあるべきを手放す」というものがある。私自身を振り返って、なぜ自分は怒りの感情を持ってしまったのかと自己分析すると、ほとんど「期待したとおりに相手が行動しなかった」場合だったと思う。相手に対し怒りを覚えるのは、当然それ相応の期待や予測が存在するからで、そこに何らかの期待がないならば、怒る理由自体がそもそも存在しない。

だから、怒らないためには、いかに「期待を持たないか」ということが重要になる。とはいえ、一方で「期待を持たない」ということは、果たして良いことなのだろうか、という疑問もある。期待というのはある種のこだわりの表れであるし、こだわりというはその人が伝えたいことであるわけだから、重要な事柄なはずだ。自分がこだわっている事柄を相手に理解してほしいからこそ期待するのだろうし、その結果として伝わらないことに憤りを覚えることになる。

なぜ今回、2015年のエントリの続きを書こうと思ったのかと言うとPodcastTuring Complete FM」の30回の最後で、まさにこの話が議論されていたからだ。

Rui「思うんですけど、教えるときに厳しすぎる人が多いなというイメージがあり、自信を失わせる方向で教えるのではなく、自信を増やす方向で教えるほうがいいんじゃなかなって」

hikarium「自信を失わせるのは本当に良くない。最初にできないのは悪いことじゃないですもんね。」

Rui「できないから逆にいるわけですからね。」

hikarium「できるんだったら来なくてよいので。だから、できるようになっていこうとしている人には本当に優しく接してあげるというか。当たり前のことですけど。」

Rui「hikarium とかちょっと厳しいときもありましたよ。」

hikarium「すみませんでした。たまになんか、てか、結構言われるんですよ。hikariumはスパルタだからって、たまに言われるんですよ。」

Rui「別にそんなつもりはないんでしょう?」

hikarium「あ、いや、ちょっとスパルタっぽくしているときはあります。でも、それは意図したものです。」

Rui「じゃあ、それをやめればいいんじゃないですか。それを。」

hikarium「でも、今回は……今回もちょっと駄目でした?」

Rui「僕はhikariumを知っているから、hikariumなみに優しくしているのかな、と。」

hikarium「いや、難しいですよね。」

Rui「まぁ、でも、それは、それこそ訓練じゃないですか。教え方と言うかテクニックがあり。心構えというよりはむしろテクニックですから。」

hikarium「あーなんか、自分が教えているのは、できそうな人を教えているので。だから、ちょっと期待値を高めに投げているので。それがちょっとスパルタっぽく見えるのかなっていうのがあるかもですね。外から見ると。」

Rui「別に期待しなければいいんじゃないですか。それはなんか言い方の問題だけど。別にこれくらい教えたんだから、これくらいできるだろう、と思わなければいいんじゃないですか。」

hikarium「たしかに、それもあるかも。せっかくだからいろいろやってほしいじゃないですか。まぁ、そうですね。高い目標を立てるというよりは、少しずつできる目標を立てて、それができたらすごいっていうことを言ってあげて自己肯定感を高めてあげるのは本当に大事なことかなと思います。」

Rui「本人が目標を立ててそれを達成するのはいいですけど、別にこっちがそれを期待する必要はないですからね。これくらい教えたから、これくらいできるはずなのに、なんでできないんだ、と思っても仕方ないから。」

hikarium「なんでできないんだという思考が一番危ない。」

私も歳をとったからかもしれないけれど、今となっては Rui さんの言うことがよくわかるし、若いときには hikarium さんに近い気持ちを持っていたな、と感じる。

一般化できるものなのかはわからないけれど、年齢と共にある種の尖った部分は減ってくるものだとは思う。若い頃には自分の考えは他の人にも理解できるものだ、という誤解があるけれども、多くの経験をする中で、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな考えを持っていて、そして必ずしも自分の考えが正しいとも限らない、ということがだんだんとわかってくる。そして、期待をするという概念自体、実はどうでもいいことなのではないかということに気付いてくる。

結局のところ、教育の結果などというものは教えられた当人次第なのであって、教える側がどうこうできるものではない。ようは「馬を水辺に導く事はできるが馬に水を飲ませる事はできない」ということだ。教える、ということは教えられた当人に伸びる”きっかけ”を与えるに過ぎない。そういう意味で期待をすること自体、余計なことなのかもしれない。