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hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

人材育成試論

気付いてみればすでにアラフォーとなり人生の折り返し地点に来てしまっている。この年齢になると、管理職でなくとも、結果的に若いメンバーが増えてきて、教育・人材育成的なことを考えざるを得なくなってくる。

正直な話、自分の人生だけで精一杯なくらいであり、他人にどうこう偉そうに言える人間ではないのだが、そこに人間関係が存在する以上何らかのスタンスを取る必要がある。個人的には、周りを幸福にする義理はないにしろ、あえて不幸にするのはお互いにとって良いこととはいえないとは思っている。

通常、私の書くエントリは、出来る限り学術的な根拠をベースとし、それを私見で繋ぎ合わせることにしているが、今回は私見の部分が強いことをお断りしておく。もし、学術的に正当化できる/できないみたいな話があれば紹介して頂けると幸いである。

人材育成の必要性

世のブログを読んでいると、こういう人はダメ(あるいはこういう人は素晴らしい)、というスタンスで書かれているものが多い。もちろんその意図は、読んだ人が発奮してダメな状態から脱してほしい、という点にあるのだろう。しかしながら、そのような文章を読んで成長する人は、放って置いても成長するだろうし、一方で発奮して欲しいであろう人々には決して届かないものだ。

個々人の自発性だけに頼るのは限界がある。採用や退職にはお金も労力もかかるわけだから、素晴らしい人を雇い、ダメな人を排除するという発想ではすぐに限界が来てしまう。

そもそも、あなたが Google に勤めているのでもない限り、仕事ができて、頭もよく、コミュニケーションスキルも高いグローバル人材などといったパーフェクト超人を雇い入れることはできない。多くの普通の会社に来るのは、良いところあれば欠点もある普通の人々だ。

人材育成は、今ある戦力を最大限活かすという発想に立った考え方と言える。

人材育成はそもそも可能なのか

企業研修などを見ると、人材育成は可能である、ということが前提としておかれている。ただ、経験的には、仕事のできない人はずっと仕事ができないままだし、優秀な人は放っておいても伸びていく、という実感が強い。あるいは、優秀な人をダメにすることは容易いが、ダメな人を優秀な人材に育て上げるのは難しい、と言い換えてもいい。

このブログでよく言及する「頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か」からは、基礎的な能力向上に大きな影響を与えることができる時期はせいぜい小学生くらいまでであって、成人となると不可能ではないにしろかなり難しいと読み取れる。

一方で、「超一流になるのは才能か努力か?」によれば、(身体能力を除けば)才能などというものは存在せず、努力の部分が大きいとされている。しかし同時に、努力をするためには、対象そのものに興味や楽しさを見出し努力を継続できることが必要だとされている。

優しく教えるといった「いい兄貴」的スタンスは、努力するためのきっかけとはなるが、継続する役には立たない。叱ったからと言って伸びるわけではないのは事実である(多くの場合、単なる平均への回帰である)が、優しくしたからと言って伸びるわけでもない。

しばしば、人材育成というと「知識を付ける」「能力を高める」ということに主眼が置かれがちであるが、純粋に能力を底上げする、という方法では教えた時間以下しか伸びないわけだから極めて効率が悪い。当人が対象に興味や楽しさを見い出すよう仕向ける必要がある。

私は英語ができない

前述の考えに従えば、興味・関心を持つことが重要であるようにも思えるが、本当にそうなのだろうか。自分自身を振り返ると、英語やダイエットは10年以上にわたって関心・興味があり何度も挑戦しているが一向にうまくいかない。プログラミングや経済学のようなトピックであれば、自然と手が動くのに英語やダイエットは興味があってもなかなか手がつかない。

どうも、人間の持つ願望と嗜好というのは異なるもののようであり、能力というものは嗜好に基いて開拓されていくようだ。もし、願望と嗜好が一致しているならば、それは大変幸せなことである。おそらく上司の助けがなくとも立派に成長するだろう。しかし、そうでないならどうすればいいのだろうか。ふたつのアプローチがあり得る。

  1. 願望に合うように嗜好を変更する
  2. 嗜好に合うように願望を変更する

願望だの欲求だのと書くと抽象的すぎるなら、嗜好=職人気質、願望=バリバリの営業マンなどと考えればいい。世界を飛び回る営業マンを夢見ているけれども、こつこつとプログラムを書いていくのが得意だ、ということであれば明らかに願望と嗜好がミスマッチだ。

前者のアプローチは夢を追う方法、後者のアプローチは夢よりも現実を取る方法と言える。世間的には前者の方が美しいが、外部から与える人材育成という観点から見た場合うまく行きそうにない。

人材育成という観点からは、嗜好性に合った目標を与えること、もしくは隠れた嗜好性を見つけるという点を重視するのが現実的だろう。もし、願望を重視するという困難なアプローチを取るのだとすれば、相手に相当の覚悟が必要があることを理解させる必要がある。

需要や現在の能力をどう見るか

願望と嗜好を合わせるという方向性に立ったとしても、まだ条件が不足している。まず、願望にしろ嗜好にしろ、その方向にうまく進んだからと言って需要があるかはわからない。ハイヒールが好きなフレンズがうまく女性向け靴サイト構築プロジェクトにありつくことができるのであれば、それは幸せなことだろうが、実際に様々な制約があり、常に自分の希望に合う仕事が見つかるわけではない。

需要がないのでは、そもそも能力を発揮する場が与えられない。需要があったとしても、参入が簡単で供給過剰な分野では、たとえ能力が高くても人より評価されることは難しいだろう。供給に比べ高い需要が望まれる分野、能力を見つける必要がある。

一方で現時点で持っている能力の問題もある。すでに年齢を重ねており、今頃方針を転換しても追いつけない、ということも考えられる。ただ、これに関しては嗜好と進む方向が合っていれば数年で何とでもなるのではと思う。

うまくまとめられなかったその他のトピック

  • 必要は発明の母。必要がない状況でいろいろ教わっても覚えないので、多少無茶でもとりあえず任せてみて、必要性がわかったところで教える方がいいのではないか。できるようになるまで任せない、というのは効率が悪すぎる。
  • 立場が人を作る、と言うが、その立場になって初めて見えてくる景色もあれば、ようやく理解できるようになることもある。満足な能力を身につけるまで立場を与えないよりは、フォローできる範囲については任せた方がよい。
  • 何事も責任の所在を明らかにすべき。これは問題を責めるためではなく、守備範囲を明確にするために必要。