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hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

「科学が役に立つ」について思うこと

ノーベル医学・生理学賞の受賞が決まった大隅教授の

「科学が『役に立つ』という言葉が社会を駄目にしている。本当に役立つのは100年後かもしれない。将来を見据え、科学を一つの文化として認めてくれる社会を願っている」 

 という言葉が注目を集めている。とはいいつつも、科学系で日本人がノーベル賞受賞すると毎度同じようなことは言っている気はするけれど。

私も理工系の出身なので、その意見には賛同したい気もするのだけれど、やっぱり間違ってるよなぁ、と思ってしまう。この手の言い分は「企業は利益のためだけではなく、周辺社会や従業員の生活のためにも存在している」に通底するように思う。

例えば、誰から見ても一点の曇もなく役に立たない研究があったとしよう。具体的に思いつかなければ、「トリビアの泉」で紹介されるトリビアの種をひとつ念頭に置いていただきたい。通常、大学の教授ともなれば、1000万円程度の年収はあるだろう。この誰から見ても言っての曇りもなく役に立たない研究に政府は、年間1000万円を拠出しても構わないだろうか。日本にも貧困に苦しむ人はいくらでもいる。その人に渡した方がいいかもしれない。

文化として認めてほしいという言葉にも微妙なところがある。夜這いのようにすでに滅びた日本文化もあれば、一部のイスラム教国に見られる非人道的な規則も文化といえば文化だ。ゲームやアニメのように、かつては文化として認められなかったものが文化として浸透する場合もある。文化とは人々が自然と培っていくものであり、認めてもらえるようお願いするものではないように思う。

企業の目的は「収益を最大化すること」だ。だから、周辺社会や従業員の生活に気をかけるのは、そうすることが最終的には自社の利益に繋がるからと考えるのが筋だろう。

同じように、科学者は「私には今は思いつかないけれど、長い目でみれば役に立つんです。こういう地道な研究が社会の生産性を向上させるんです」というべきなのではないだろうか。一見、直接的には役には立たなそうな宇宙科学や歴史学であっても、多くの人の知的好奇心を満たすのであれば、経済学的な考えに沿って人々がその知的好奇心に支払ってもよいと考える金額に相応した費用を投じることは正当化できる。

言い方だけの問題かもしれないけれど、科学者にはもっと自信を持って「役に立つんです」と言ってほしいと個人的には思うのだ。