hidekatsu-izuno 日々の記録

プログラミング、経済政策など伊津野英克が興味あることについて適当に語ります(旧サイト:A.R.N [日記])

評価は必要だ。だが、強制ランキングシステムはいらない。

本題に入る前に強制ランキングシステムとは何かということを説明する必要がある。強制ランキングシステムとは、社員を評価し、上位20%程度に著しく高い報酬を払う一方、下位5~10%を解雇するというシステムである。

日本では、ほとんど導入されていないが、アメリカのハイテク企業ではしばしば導入されていると聞く。最近、サイバーエージェントがこの方式を導入したことが話題となった。

この制度が発案者の考える通り有効に機能するのであれば、それは決して批判すべきものではない。企業は利益を上げることを目的として存在しているのであり、社会保障のためにあるわけではない。

その一方、MicrosoftAdobe は強制ランキングシステムどころか業績評価自体を廃止したようだ。どちらかと言えばこれが最新の流行である。

とはいえ、流行こそがすばらしいとは言えない。「Work Rules!」によれば、Googleは、より詳細な分析を行い、より良い業績評価とは何かを考え続けている。

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 まず、強制ランキングシステムの利点と欠点について考えよう。利点は明らかだ。単純明快で簡単だ。業績評価という難しい問題について経営者は思考停止できる。一方、欠点は何か。例によって、「HARD FACTS」を参照しよう。

匿名で会社の幹部上位一〇〇人に、知識を実行に移す障害になっている会社をの仕組みを聞いたところ、このスタッキングシステム(=強制ランキングシステム)がナンバーワンとなった。……アンケートでは、強制ランキングシステムは生産性を下げ、不公平感や猜疑心を増長し、従業員のコミットメントを下げ、協力の障害となり、経営への信頼を損なうと回答していた。

著者らは、底辺の数十%を解雇することが組織のためになるという証拠は見つけられなかったと述べている。ようは、強制ランキングシステムには根拠がないということだ。

事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?

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では、AdobeMicrosoftのように業績評価をやめてしまえばいいのだろうか。私にはこれはこれで新たな思考停止なのではないかと思える。「HARD FACTS」からさらに引用しよう。

一方で、グループや組織文化の維持に関する研究からは、組織にフィットせず、問題を起こす人間を取り除くことが不可欠であると指摘されている。他のメンバーが学ぶのを助けたりしない、企業の業績改善に何ら貢献しようとしない人々を取り除くのは意味がある。再教育をしたり、あるいは無視したり、ののしったとしても、そうした人たちは変わらないだろうから、組織から去ってもらうのが一番良い。そうした人々を解雇することは、彼らの行動が問題であり、この組織には必要ないというシグナルを送ることにもなるのである。

また、 「Work Rules!」には Google が業績評価をやめない理由についてこう書かれている。

多くの企業が業績評価を完全に放棄しつつあるのに、グーグルが評価システムにこだわるのはなぜか? それは公正さのためだと思う。

社内には様々な人々がいる。優秀な人、努力をした人がいる一方で、悪影響すら与える人もいる。業績評価を放棄することは公平かもしれないが公正ではない。もしかすると評価によってもたらされていた良いインセンティブを失うことになるかもしれない。

おそらく、問題なのは評価自体ではなく評価の目的なのではないか。

強制ランキングシステムという発想は、社員を個人として扱っている。しかし、企業というものは決して個人から成り立っているわけではない。「HARD FACTS」の別の節でも述べられているように、企業は集団によるシステムであり、単にメンバーの能力の総計によって強さが決まっているわけではないのだ。そう考えれば、強制ランキングシステムで個々人の社員を分断することがいかに問題含みかわかるというものだ。

業績評価は、誰もが組織を牽引していると思われている人物を評価し、組織の足を引っ張っていると思われる人物を排除するために使われねばならない。それは決して、上位下位の何%などという指標ではなく、できうる限りの誠実さ、公正さにおいて行われなければならないということだろう。たしかにこれは難しい。Googleですら結論が出せないのも当然かもしれない。